東大での受験生、心配しました…

先日行われた大学入学共通テスト。今年はものすごく面倒臭くなったという評価があちこちから聞こえてきます。
特に数学の難化が顕著で、英数国の3科目では平均点が30点以上下がったという話。うちの受験生たちも、

「爆死した!」

なんて帰ってきたようです。まぁ、みんな難しかったからね。条件は同じです。

私は毎年チェックする古文の問題だけチャレンジ。
こちらもなかなか文意が頭に入ってこない問題でしたね。しかも増鏡にとはずがたりなんて、まぁなかなかマニアックな出典。ここ数年は大学受験畑からは去っているので、すっかり腕も鈍り、つい2問も間違えてしまいました…トホホ。

さて。

地域柄、東大で受験した生徒も何人かいたのですが、あの事件。
いやぁ、肝を冷やしました。学生が怪我をしたという報道を見て、「まさか…」と思いましたが、うちの生徒ではなかったのでひとまず胸を撫で下ろしました。怪我された方、本当にお気の毒。回復をお祈りします。

で、いろいろ後から出てきた情報を見ていると、本当に腹立たしいというか、頭を抱えてしまうというか… 私がいろいろな本や文章の中で書いてきた、最も毛嫌いする受験生だったので、ついこんな文章を書いてしまうことになりました。

当日、「偏差値73の高校から来た」と騒いでいたという報道。火炎瓶やら何やら多数持っていたという報道。わざわざ私服から制服に着替えていたという報道などなど。

そりゃ最上位の学校であればあるほど悩みもそれなりにあるでしょう。東大理Ⅲ・医学部を目指していたのなら、精神的にも辛いこともあったでしょうね。でも… 何でこうなっちゃうんだろうなぁと心底思います。子どもたちの話を直接聞く立場の私は、やはり周囲の大人の価値観が彼を追い込んでいったのかもなぁ…と思ったりします。

もちろん真相は分かりません。もっと複雑な理由があるのかもしれませんが、それを知る由もなく、またそれによって彼の行動を正当化することも出来ません。ましてや「社会のせいだ」みたいな、「出たよ!」的なコメントも発したくはありません(笑)

ただ。
誰も指摘していないところに私は怖さを感じるのです。

それは、医学部を目指しておきながら、最終的に人を傷つけたり殺めたりしようという発想に至った点です。
ここ、ほとんど指摘されていないんですよね。私はどうしてもここが気になります。

最近の大学生たちを見ていても思うのですが、職業選択や就職というのもが「自分のため」になっているように思うのです。大義がないというか、使命感がないというか、つまり職業に対するミッションが各個人に感じられないケースが多いのです。これって、受験の時からそう仕込まれてきたのかなぁと感じる瞬間はあります。

つまり、「医者になれば勝ち組だ」「弁護士は富裕層になれる」などいう、自分目線の職業選び、そしてそのための進学です。これは、「安泰だから公務員になれ」という親御さんの発想にも近いものがあると思います。かく言う私の父も昔は、教員は親方日の丸だから安泰だとか、休みが多いとか言っていて、親からは公務員になれと言われたことがありました。私はそこに反抗して絶対民間へと心を決めたところもありましたが、今になって思えば、

「自分のために職業を選ぶのは嫌だ」

と思ったんだと思います。直感的に。
社会の役に立つ、何かの役に立つ、生きている意味がある、存在する意味がある、私である必要性がある、そんな仕事でないのなら、自分が自分である必要がないと思ったんだと思います。

まぁ、そこまで灰汁が強くなくてもいいんですが、少なくとも医者になりたいのならば、「人の役に立ちたい」「人を救いたい」「命を助けたい」、そういう理由でなるべきでしょうし、その信念を醸成していく必要があったのだと思います。それが人を殺めようとしてしまうとは…

ふと思い出したのは、十数年前のこと。
江戸川区に教室があった頃、ある中学校の3年生のお母さんが、担任の先生があまりに酷いと愚痴をこぼしにきたことがありました。聞けば、担任でありながら保護者会では何も喋れないし、会話もままならず、仕事はアッサリ。全然親身でないし、そもそも生徒からもかなり距離があると。

で、保護者会の時に、親御さんたちがいい加減キレて、「先生は何で教師になったんですか?」と聞いたところ、ボソッと、「ぼく、これしかなれなかったんで…」って言ったというのです。保護者が騒然としたと(笑)そりゃそうでしょうね。結局校長が出てくる騒ぎになったらしいですが、私も驚きました。これが早稲田の最難関を出ている先生だというから更に腰を抜かしました。これこそまさに自分目線のみの職業選択だったんでしょうね。

学力偏重だとか、心の教育とか、環境だとか、いろんなことが言われていますけど、この事件を何の教訓にすべきかと言えば、おそらくここなんでしょう。進学も、就職も、「己の存在の意味を明らかに」して、どういうミッションで自分が生きていくのかをしっかり考えた上で、大学なり何なりを考える。学校とは、そういう研鑽の場であるべきで、大学受験予備校であるべきではない。そういうことなんだと私は思いました。

古い本ですが、「予備校が教育を救う」(文春新書)を読んで大いなる違和感を感じた私。何を思い上がっているのかと、腹立たしさも感じたほどでした。自分で言うのものなんですが、塾予備校など、所詮は受験屋。商人です。本来であれば商人如きが教育の大義を語るなどおこがましい話。しかし、進学校になればなるほど予備校化し、それを先鋭化させてくるわけで、そこにパターン化、ノウハウ化、マニュアル化が見えるわけです。中学受験まではベースの強化として実に面白い知識の導入がなされているのに、その先が予備校化していて、あまり期待できないのが現在の日本の上位層教育だと思うと、結構ガッカリするものです。私が中堅校でノビノビやったほうがいいと思っているのは、ここへのアンチテーゼも入っているのだと思います。

どこの進学校も、裏には予備校の姿がちらほら見え隠れし、最難関大学の合格者数を稼ぐためには…というノウハウがチラチラします。高校で行われる大学進学の説明会には堂々と予備校が登場し、データをもとにお話が進みます。

確かにそういうのも重要なことなんですが、やっぱり煽られたり、偏差値至上主義に追い込まれたり、物量作戦に疲弊したりはするものです。自ら高い目標を設定して、意気揚々と頑張っているなら全然問題はないのです。しかし、中には、「東大に行ければ天と地がひっくり返る!」と信じて、盲目的に学力だけを上げ、高い偏差値を取ろうとする子もいるでしょうね。ドラゴン桜みたいな世界なのかもしれません。

そういう人を否定はしませんが、みんながそれで行けるわけではありません。
若い頃は、「自分は一体何者なのか」を探し続けているのだと思います。その延長線上に学習があればそれでいいのだと思いますし、答えの出ない若者を唆し、学力さえつければ人生勝ち組であるかのように吹聴してしまう大人は、やっぱり問題があるでしょうね。

と、いろいろ考えて。
私はそうならないように気をつけようと。
ただそう思っただけです。

私も小さい人間なんで、自分のところの生徒の無事を喜び、私が気持ちの悪い学歴至上主義みたいな考え方に陥らないように、いや、ちょっと欲を出して、本人の望まない高偏差値校の合格を欲しいなんて思わないように、自らを律したいと思いました。

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