「考えない練習」という、この若いお坊さんの本。書店で見て非常に気になり、急いで買ってみました。
なるほど。
自分より10も若いお坊さんに諭される私。
そして、それを受け入れることが出来る私。
少しだけ私も人間が出来てきたのかな?(笑)
彼が言うことは、要は「思考」という雑念(ノイズ)が、集中力を殺ぎ、いらいらし、迷うのだと。
思考のノイズをカットするには、五感を大切にした練習、つまり五感を使っている意識を高めることが大切なんだとか。その意識のパワーが「念」なのだそうです。
なるほど、意識をしてしっかりやることは「入念に」ですし、ボケっとして忘れていたことは「失念」と言いますものね。なるほど…
確かに大人になると、あれこれと考えることが多くなります。そう言われれば、五感で感じることよりも脳内で思考することが我々の行動や意識を支配していることが多いかもしれません。我々の昼食(ほとんど夕食ですが…)も、何かを「美味しい」と感じながら食べるというより、「ここで食べておかないと3時間目までもたない」とか、「今日は肉食ではなく野菜を食べなきゃ」というような意識が先行して、結局何を食べても同じ、もしくは美味しくもまずくもないものを栄養補給として口に運んでいる… そんな気がします。
味覚のみならず、自分で感じたこと、現実にあることを大切に生きることで、急遽なバーチャル思考から逃れる必要はあるかもしれません。それにより、少なくとも「幸せ」や「生きていること」を実感することが出来るかもしれませんし、充足できるかも知れません。そういうことを日常生活の中で忘れているかも…
これは子どもにも言えるかもしれません。今の子ども達も、自分達が見たもの、聞いたもの、出会ったものからの「感覚」を大切にしているというよりも、先行する「情報」「知識」、また「バーチャル体験」が彼らの意識を支配している気がします。
あえて言うなら「教科書」というのもひとつの「バーチャル体験」ですが、それ以上に「ゲーム」「ネット」「TV」などのよりリアルなバーチャル体験が可能な世の中ですから、五感を生かすというよりも脳内の「思考」が先行します。ゆえに「臆病」であったり、「迷い」が延々と続いたり、結果「集中力の欠如」が現象として表れたりします。
落ち着かない子、集中力がない子というのは、確かにいろいろなことを考えてしまっています。目の前のことを成し遂げる間に、様々なノイズが入るのでしょう。目の前の計算をすればいいだけなのに。
「間違えたら怒られるかな」「居残りになったら嫌だな」「宿題いっぱい出るといやだな」「約分するんだっけな?」「先にここ計算するんだっけ?」「聞いたら先生嫌な顔するかな?」「みんな出来てるのかな」
恐らく、1問解く間にこれくらいの問答をしているのでしょう。
当然これでは集中どころの話ではありません。
彼が言う「休脳」とは、思考を完全に停止せよということでもなく、思考を悪としているわけでもありません。が、「脳内引きこもり」というべき、虚しい思考の無間地獄から脱却し、バーチャルではなく現実に存在する「感覚」を取り戻すことで、ある意味での「人間らしさ」、すなわち「生きる実感」ということを充足させることが幸せに繋がると、そういうことなんじゃないかと思うのです。
自分のあり方をもう一度見つめなおすきっかけには良い本だと思います。中高生はもちろん、大学生にも是非。宗教的なものを差し引いても勉強になりました。
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