千駄木の往来堂書店で行う「D坂文庫」というフェア。喫茶店「乱歩」のご主人が一緒になって本を選んでるらしいですが、なかなか面白いセレクトなので楽しみにしています。
今年、その中に、藤澤清造の「根津権現裏」が入っていました。というか、イチオシでした。根津権現とは根津神社のこと。権現造という建築様式の傑作と言われ、現在の社殿も江戸時代に建てられた権現造。いまだに根津権現と呼ぶ方もいらっしゃるようです。
主人公である私は根津権現近くの下宿に住まう雑誌記者。地方から出てきて、恋人もろくに出来ず、また持病の骨髄炎を治すための金もない自分を恨むしかない毎日を過ごしています。そのうち、いつも共に過ごしていた同郷の友人徳次郎が急死したという知らせが舞い込みます。自殺。私同様困窮した生活を送っていた徳次郎は、女中との交際を始めたばかりだったのですが、いろいろと悩み続けていました。人を裏切ってしまった自責の念から逃れられなかった末の自殺、それを突き詰めれば己が貧しさから自由になれなかったというところに帰結。大正期の青年の夢と失墜を描く私小説と言われていますが、正直、私にはあまり共感できないものでありました。
日本の小説界においても、かなりマイナーな作品だと思いますが、これをベストセラーにしてしまうのですから大したものですね、往来堂は。
この作品は私小説だと言われています。というか、主人公の私は明らかに藤澤清造その人そのものです。地方から出てきた(石川県出身)こと、骨髄炎で歩くのにも苦労していたこと、そして何より貧困に夢断たれること。藤澤の最後は彷徨した末に芝公園で凍死体で発見されるというものでした。精神的にも非常にナーバスかつコンプレックスに満ちたものであり、抜け出せない貧困と不幸の連鎖に苛まれる人生であったのかもしれません。
この小説に出てくる根津界隈は今も変わらぬものがあり、土地勘のある人はリアルに彼の生活環境を感じることが出来ます。
「『ああ、何時までこうした生活を続けねばならないのか』愚痴なようだが、またこう思うと、はらはらと両眼から、熱い涙が落ちてきた、其の涙を払ってみると、其処はもう団子坂の下り口になる。」
「岡田は中橋のところへ行くと、直ぐと彼を外に連れ出してきた。私たちは三人になると、あかじ坂と云う、元警官学校のあったところの坂をおりて、根津の大通りへ出てきた。」
「其の日はそれから、私たちは誰云うことなく、上野の公園でもひと廻りしてこようかと云うのでもって、連れ立って外へ出たのだ。それから私たちは、団子坂下を真直ぐに、谷中三崎町から同じく初音町を通って、同じく茶屋町へきた時だった。岡田はこれから、其処の墓地へ入ってみようと言いだしたから…」
「それから私達は、墓地を出て、初音町の交番のところまで、元きた路を取ってかえすと、其処から左へ折れ、真島町からあかじ坂をおろして、根津の大通りへ出てきた。そして、其処からは八重垣町へ入って、根津権現の境内を抜けて、其処の裏門のところで別れたのだ。」
こんな記述があると、「ああ、あそこからこう回ったのだな…」と実際分かります。現在は町名変更されていますが、旧町名も残っているので、だいぶ分かりますね。
「団子坂」はご存じ千駄木駅前にある坂、あかじ坂は私の通勤路、三崎町は谷中小学校付近、初音町は「初音の森」があるくらいですからご存じの場所、茶屋町は今の谷中霊園入口だそうです。真島町は谷中二丁目付近、根津八重垣町は根津のたいやきがある付近で私の自宅の町内、根津権現を抜けて権現裏は日医大側の根津神社鳥居付近でしょう。本当に私の自宅のすぐそば。驚きますね。
旧本郷区根津八重垣町は藤澤が最後に移り住んだ場所なのだとか。町内に住んでいたからこそ、ここまでリアルな描写になったのだと思われます。
また、こんな記述もありました。
「岡田のいた事務所は、何方かと云えば事務多忙の方だったが、しかし其の結果は、労働時間のみが多くて、其の割りには副収入の乏しい組だった。だから彼は、其の頃夜間通学していた、正則英語学校の月謝にさえ追われがちな有様で、散々貧苦に攻め抜かれているところへ…」
この、正則英語学校とは、現在神田にある正則学園高校の前身。こんな風に名前が出てくるというのは、歴史ある学校ゆえですね。私の母校・明治学院も島崎藤村の「桜の実の熟する時」に出てくるのですが、当時から学生が夜間も勉強にいそしんでいた姿がわかります。
貧困からの脱出というテーマが何度も登場する本作において、ある核心を突いた記述を見つけました。それは、
「なるほど金を得る方法は幾らもあるが、しかしそれは皆、それ相当の資本を要することばかりだ。ところで私達は、資本のことは固より、それに代わる労力らしい労力さえも持っていないから、有ゆる方法と云う方法は皆絶望だった。それをなお考えると云うことは、海上を徒歩でもって渡ろうとするも同様だった。
其処でまた私が問題にしたのは、私達が唯一の資本にしなければならない、自己の能力を養うには、如何なる方法を取って好いかと云うことだった。だがこれは、「要は勉強にあり。」という一言に尽きていたが、其の勉強をするにも、やはり先立つものは金だった。早い話が、一冊の書籍を買うにも、一頁の英語読本を教わるのにも、金を持たないことにはどうすることも出来ない。」
という部分。
ここからは様々な真理が得られます。つまり、金儲けの方法などは山ほどあり、アイデアなどというものは幾らでもあるのです。以前、現在収監中のほりえもんが、「アイデア料なんてものはない」と豪語したことがありますが、まったくもってその通りで、思いつきなんてものは誰でも持てるものです。ビジネスアイデアなど、いくらでも湧いて出ます。それを実行できるか否かが人間の価値を決め、成功の有無を決めるわけですから、アイデアなんてものの価値を信じている人間は実におめでたいわけです。何事にも資本が要る。資本をもって、事業を展開する技量が必要なのです。ですから、何か考える若者はまず、いかなる形であれ「資本」を持つべきなのです。
その資本となるものの一つが「勉強」「頭脳」です。「金が無いなら、知恵を使え」と、これしかないのです。特に金銭的資本に乏しい若者が資
本とすべきものは、知恵と労力。有り余る時間と、有り余る体力、そして若き発想力をもって資本とするしかありません。しかし、それが分かっていない若者がいかに多いか、最近しみじみと感じます。
しかし、この「私」は、それを全て「金が無い」ということに転嫁し、わが身の不幸を嘆くことで免罪符としているふしがあります。全編にわたり、己の貧困を嘆き、貧困ゆえに成功を望めないという愚痴をこぼしていますが、私にはこの一点においてこの主人公に全く共感できませんでした。資本を得るためにがむしゃらに働くでもなく、自分の狭隘な視野のみで世界を見、コンプレックスを克服するでもなく、持病と貧困との運命を嘆くのみ。私が最も卑下したくなる人物でもあります。
もちろん、分かる気もします。しかし、主人公「私」の何ら建設的でもない人生に、果たして共感が出来るかと言われれば否。作者藤澤清造自身の苦悩を描いたと言われれば、確かにその苦しみを理解してやりたい気もしますが、苦悩から逃れるための自虐的破滅へ向かう思考は、私とは相いれません。読んでいて、少々苛立たしさも感じました。
皆さんは読後、どのような感想を持たれるでしょうか。ただただ悲しみに涙するのは少々センチ過ぎるように思いますが、大正期、不安定な時代に生きた上京青年が、この地で様々に悩み苦しみ生きていたという一つの記録としては読みごたえのある作品だと思います。
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