【書評】東京最後の異界 鶯谷

レオニダスのお店で働くことになった女の子[教え子]の住まいを探すために、鶯谷近くの不動産屋に飛び込んだことがあります。知っている不動産屋はもちろん、いろいろ声をかけておこうと思って、いくつか飛び込んでみました。「こんな小さなテナントってあるんだ!」と思うような3畳にも満たないような不動産屋もあって、鶯谷っていうのは何と怪しげな街だとその時思ったものです。

20代の女性の一人暮らしの部屋を探す怪しげなオッサン。女の子はカフェの店員だとは言っていますが、本当のところは分からない。平日昼間の鶯谷… 不動産屋の対応が妙だなぁ…と思っていましたが、ある瞬間、分かりました。私、完全に、その筋の方に間違われていました(笑) 怪しげなお店で働く女性の部屋を探しているのだと勘違いされていたのです。鶯谷ゆえの勘違い。なるほどなぁ… 鶯谷って、こういう街なんだなぁ… と、改めて自分の住む町を認識したのを覚えています。

ひょんなことから見つけたこの本。今回の本は、子どもたちに「是非読みなさい」とは決して言えない本です。いや、子どもは読んじゃダメな本です。しかし、大人はよく読むといいと思います。そして、地元ゆえに麻痺しつつある、この「鶯谷」に対する警戒感を再認識すべきなのかもしれません。

かつて、鶯谷と言えば、「女性が一人で降りちゃいけない駅」とも言われたほどの怪しげな場所でした。私もそう教えられたことがありますし、いまだに自宅の最寄り駅を「鶯谷」というのには少々躊躇があり、「日比谷線の入谷」と言ってしまうものです(笑)

以前、鶯谷駅を使う桜学舎スタッフが、寛永寺陸橋への近道のホテル街で、女子生徒とすれ違ったそうです。地元ゆえの通り道、毎日の通勤路、それ以上のことは何もないのですが、誤解を招きかねないと注意をしたこともあります。麻痺してはいけませんね(笑)

なぜこの街には太目の女性や熟女が多いのか、なぜ北口の東京三菱のATM付近に男が立っていることが多いのか、なぜみずほのATM前から車に乗って行く男が多いのか、なぜ韓国語が沢山飛び交っているのか… 店や路地のレベルでどこの話をしているのかが分かるこの本は、この街に引っ越してきた私にとっては、危険回避マニュアルであり、かつこの街の歴史、そして光と闇を知る貴重な「知識導入」となりました。

かつて、正岡子規が住んだこの鶯谷。近くに庵を持った河東碧梧桐らを含め、その跡は現在見事にラブホテル街になっています。「獺祭書屋俳話」から始まる俳句革新運動、根岸短歌会による短歌革新運動と、日本文学史上、短歌・俳句に大きな影響を与えた文豪の住んだ街も、今や東京随一の風俗街となり、そんな街を抜けて通学する「下町の学習院」(こう言ったのは先代林家三平師匠だそうですね)根岸小学校の生徒は、そりゃ逞しく強くなるわなぁ…と感心します。

なるほどなぁ…と感心したのは、筆者の鶯谷分析。筆者は、鶯谷駅に立つと、二つの異界を眺望できると言います。鶯谷駅は陰と陽、生と死が併存しているとも。

24時間365日、男女が事に励むラブホテル街は、かつてフロイトが唱えたエロス(生)の異界、反対側は東叡山寛永寺の霊園が広がり、これもフロイト流に言えばタナトス(死)の異界。つまり、駅のホームから人生の始点と終点を見ることが出来ると言うのです。

そしてなぜ鶯谷が異界なのか。よく考えると、この近辺に「鶯谷」という地名はありません。行政区画だけでなく、通称「鶯谷」という地名すらありません。「鶯谷」とは台東区根岸近辺ということになります。それでは果たして「鶯谷」というのは何処にあるのでしょうか? 答えは「無い」というもの。人々の「妄想」と「欲望」の中だけに存在する。つまりは「異界」なのだ、というのです。なるほどなぁ… そんな異界に住んでおります、わたくし(笑)

ところが、そんな「異界」も、歩いてみるといろいろと「へぇ!」が存在します。

本書にも出てくる、江戸川乱歩の「陰獣」もこのあたりが舞台。主人公が密会の地に選んだのは今の台東区根岸。現在竹隆庵岡埜本店のすぐそばにある「西蔵院」というお寺に現存する「御行の松」の近くというのですから、根岸4丁目あたりでしょうか。犯人の大江も都内を転々とし、根岸のほか、日暮里金杉、谷中初音町、何と「上野桜木町」まで出てきます。

北口駅前のオリジン弁当がある場所は、もともと加山雄三氏の祖父の家だったのだとか。「苦役列車」で芥川賞作家となった西村賢太氏が安いアパートで暮らしたのも鶯谷。作中に出てくる人間模様は、鶯谷だと言われれば、さもありなんというもの。昭和の爆笑王・林家三平師匠の「ねぎし三平堂」があるのも鶯谷。江戸時代に初めて絹ごし豆腐を出したといわれる老舗「笹の雪」は根岸小学校前。吉田は「友達の家だよ」と言います。もちろん前出の正岡子規の家を、碧梧桐や高浜虚子をはじめ、夏目漱石、「土」で有名な長塚節、「野菊の墓」の伊藤左千夫なども訪れたと言います。

鶯谷は、決して風紀のいい街ではありませんし、誰もが羨む町でもないのかも知れません。しかし、いろいろなものが雑多に交わる不思議な空間であることは間違いが無いようです。面白い街である反面、一つ足の踏み入れどころを間違うととんでもない、まさに「異界」が待ち受けています。カタギじゃない人々もたくさんいる街です。
「分かった上で、上手に付き合う」ということが必要な街なのでしょう。

私も深夜に帰宅すると、何度となく「社長、どうですか? 女子大生から人妻まで!」と声をかけられたことがあります(笑) 女子大生も、人妻も、間に合ってるなぁ… と言ってかわしますが、どうも私は異界には用が無い人間のようです(笑)


【東京最後の異界 鶯谷】
本橋信宏/¥1,500/宝島社

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