高校生の時に、文学史の教科書に出てきただけの三島由紀夫に興味を持ったのは浪人生の頃。恐らく予備校の現代文のテキストで一部が出てきたのでしょう。その時は何となく読んでみたいなぁと思い、「大学に入ったら読む」という本のリストへ入れてありました。
幸いなのか、不幸にしてなのか(笑)、大学まで片道1時間40分、往復でも3時間20分という時間が電車の中。正確に言うとドアツードアでの時間なので、電車の中は片道1時間20分弱でしょうか。少なくともこれだけの読書時間を学生時代に確保できましたので、硬軟あわせてかなり本を読むことが出来ました。というより、活字を持たずに電車に乗ることが恐怖に近く、何かの拍子に何も持たず電車に乗ったら地獄の時間を過ごさねばならない…なんて感じ。間違いなく活字中毒だったのでしょうね(笑)
三島由紀夫について先入観もなく、確か最初に読んだのは「仮面の告白」だったかと思います。読んでいくうちに「おや?」と。話が全然つながらずに、意味も分からなくなってきて、大混乱。ところが、「ははぁ、そういうこと!?」と分かった時点で、(既読の方はご存知ですよね)妙におかしくなってしまったのを覚えています。場所まで。千駄ヶ谷駅と信濃町駅の間の総武線の車内でした(笑) そういうことなのか… そういう小説だったのか、と(笑)
そこから妙な興味を持って、スタンダードな作品を手にしていきます。金閣寺や潮騒なども一通り。しばらくして、塾でアルバイトをはじめ、国語を教えるようになりました。人に教える、教育というのが大学生活の一つのキーワードになっていく頃、この「不道徳教育講座」というタイトルの作品に出会いました。何と刺激的なタイトル!国語の先生として中学生の前に立って授業をしている私にとっては、面白い作品に出会った気がして、夢中で読みました。
雑誌の連載をまとめた、三島にしては随分俗っぽいエッセー集の体をなす作品集ですが、実に「毒」を吐いているというか、逆説的な皮肉というか、でも「なるほどなぁ」「そうだよなぁ」と思わせる部分が多々出て来ました。塾講師仲間でも回し読みをして、妙な感じですが、アルバイト終わりの深夜にファミレスで集まって、結構「教育論」「指導論」を交わしていたこともありました。
この中に、「教師をバカにするべし」という一編があります。私はいまだに生徒にこれを言いますが、実は私のオリジナルではなく、ネタばらしをすると、三島由紀夫の物言いなのです。ただ、私はこれはずっとずっと、塾の教え子たちには言い続けています。
学校の先生に限らず、塾の先生でも、習い事の先生でも、何でも、子どもの頃は「先生」というのは偉大な存在で、逆らえない存在だと思うのです。絶対権力を持っていて、さらに言えば、何でも知っていると思い込んでいます。だから時々先生が知らないことが出てくると、「先生のくせに…」と驚いたり、バカにしたり。
三島が言う「教師をバカにせよ」というのは、そういう失態をあざ笑えということではなく、そもそも教師というものの万能感を疑えということなのだと思います。
「学校の先生が言っていた」ということを真正直に信じ込んで、真面目に100%受け入れようとして受け止めきれずに苦しんでいるような子を見ると、「先生の言うことなんてある程度スルーしときゃいいのになぁ…」と思うこともあります。聞いてみれば、先生がおかしなことを言っていたり、間違ったことを言っていたり、「そりゃ無茶でしょう?」なんてことも、平気で言っていたりします。先生だって人間ですから、間違うこともあれば、失敗することもあります。つい生徒を傷つけるようなことを言ってしまうこともあるでしょうし、おかしなことを言いだす人だっています。「先生だって人間なんだから…」ということが頭から抜けてしまうと、どうしてもこういうことが起きてきます。先生はスーパーマンじゃないんですよね。
私は、教師はナビゲーターでしかないと思いますし、教師は「入口」であればいいのだと思います。つまり、教師だから何かが専門的に出来なければいけないのではなく、教師は実は何の専門性も無い人間の方がいいのだと思っているのです。ただ、興味の対象が幅広く、いろんな分野への「入口」になるえる人物であること、それが「教師」としての資質なのではないかと思っています。正直、その知識など聞きかじり程度でも構わないし、よく分からないのでもいいのですが、興味を持って生徒に伝達出来て、その興味の対象へどうアプローチしたらよいかをナビゲーション出来ることが重要なのでしょう。その先の専門的な内容については、「研究者」「専門家」に任せればいいじゃないですか。物理ばかりやっている物理の専門家の方が教師なんかより面白い「物理」を教えることが出来るでしょうし、英語の教師に習う英語より、英語の専門家や、今人気のYoutuberの方が楽しく英語を教えてくれるかもしれません。教師本人が何かの専門家になる必要はなく、いろんなことを楽しく、面白く語れる「入口」になればいいのではないかと思っています。
私はそういう意味で、かなり「いい加減」です。自分では「良い・加減」であると思っていますが、実は私に専門性などありません。マスコミ学科という性質上、教員免許は持っていませんし、国語の専門性もありません。全部独学・現場での経験。ただ、「これって面白いよね…」「こういうところで勉強してみたら?」「こんな人紹介出来るよ?」そういうつなぎ役、窓口、入口になることは多いです。
マレーシアプチ留学もそんなつもりで始めた企画。マレーシアが素晴らしいのではなく、そこを入口に、どんどん海外に出る「勇気」が出ればいいなぁと思ったのです。私とマレーシアに行った後に、自分でフランスやタイやアメリカやニュージーランド…いろんな国に行く子がいました。教師はそんなもんでいいのです。
大人になって、大学を卒業して、「あれ? 塾長もたいしたことねーな」って思えるようになったら、成長したってことです。でも、自分が何かをするきっかけを作ったという点で感謝してもらえるようであれば、教師として存在した価値が少しだけでもあるってことです。
「先生と言われるほどの馬鹿でなし」
不道徳教育講座/三島由紀夫 /角川文庫/679円
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