恩師

昨日。

亡くなった恩師のお家に、お線香をあげさせて頂きに行ってきました。
高校2年生の時の担任。
しかし、高校の恩師と言えば、私はこの先生を挙げます。

半年に一度来る高校の同窓会誌。
その訃報に掲載されていて初めて恩師が亡くなっていたことを知りました。今年の1月。知ったのは8月。いや、9月かな。

奥様との二人暮らし。
お子さんがいないことは知っていました。
突然お電話するのも失礼かと思い、一度奥様にお手紙を差し上げて、その後お電話しようと思っていました。実は先方からかけて頂いてしまったのですが。

早期退職後に自分で建てた別荘のある蓼科へ移住しようと準備をしていた矢先に急逝されたそうで、奥様も呆然としてしまったとか。その後、奥様は、先生との共通の地元・国立に移ったとお聞きしたので、今日は国立まで。一橋大学のすぐそばまで行ってきました。


「どんな先生なの?」
同行した妻に聞かれたので、
「頭モジャモジャで、口ひげ生やしてて、サングラス」
「じゃ、ハーレーとか乗ってる雰囲気?」
そうでもないけど、とにかく豪快な先生でした。
自由を愛し、子どもが好きで、生徒を信じ、それでも子供のことをよく分かっている、そして言いたいことは言うけれど、考える時間をちゃんと与える先生でした。

どこかで書いたかもしれませんが、2年生2学期、私は数学α、数学β、物理、世界史の4科目が赤点。普通なら呼び出しですが、先生は成績表をみんなに見せびらかし、「かめさーん、1が4つもあるぞー、だいじょぶかー」と。恥ずかしかった…

でも、その後、ヤバイと思って勉強したので、何とか3年生になれました。今じゃ問題扱いされるのかもしれませんが、こういうことが出来てしまう先生でした。

どんな注意でも同じ。
ちょっとだけキツいことを言いますし、強烈なパンチがあることをするのですが、それ以後はあまり言わない。生徒の様子を見ているんですね。だから生徒は考える。ちゃんと考える時間を与えてくれるのです。口うるさく、いちいち言われたら、私はグレたと思います。

「バカじゃねーから、分かるだろ?」
そう生徒を見てくれる先生でした。
照れ屋なので、あまり饒舌に話すことはありませんでした。でも、そういうリベラルな教育が出来る、自由を愛し、自律を促す先生でした。

もうひとつ、
「おーい、ちゃんとやってのかー」
と突っ込んでくるときはいつも、チョンチョンとお腹や背中や肩を突っついてきました。先生のスキンシップなんですね。あれが、結構みんな嫌ではなかったのです。大事ですね、そういうの。私もやってます、それ。


今にして思えば、私は先生の姿を理想の教師像としていたのかもしれません。

かなり影響を受けていると思います。
お説教はするけれど、その後は生徒を見守る姿勢。生徒をチョンチョン突っつくところ、生徒を根本で信じているところ… あらためて昨日先生の遺影の前に座ってみて、気づきました。

「この先生の真似をしてるんだな、オレは」

と。

お酒を愛した先生。
奥様に聞くと、1日も抜かなかったそうです。
高校時代も、1限の授業で、少々お酒臭い時は、授業は絶好調。抜群に面白かった記憶があります。古文の先生だったのですが、裏話からHな話まで、とにかくいろんな話が出ました。男子校だったこともあるのですが、それでもこの時に聞いた話が後々私のネタになっている部分もあります。

私が古文を教えているなんて言うと、
「あれ? かめさん、古文なんて出来たっけか?」
と言われそうですが(笑) お恥ずかしい。しかし、この先生じゃなければ古文を勉強したりはしなかったかもしれません。

東京の数多くのバーにボトルが入っていると聞いていましたので、飲みに回らないと…と言っていたのも懐かしい。母も役員をやっていたので、先生とはよくお話していたとか。随分お酒の話はしていたと聞きました。


1月に先生が亡くなって。
2月に母校の合格者が出て、結局進学。
8月に先生が亡くなったことを知りました。
その後、講師で母校の出身の子が来て、採用。すっかり母校談義に。
女子聖学院の先生が来たら、先生の話が突然出てビックリ。
そして、生徒のご招待を受け、久々に母校の文化祭へ。昔行ってた店にも行けて満足。

とにかく、今年は母校イヤー。
先生が呼んでいたのかと思ってしまうくらい、続きました。


奥様といろいろお話して、2時間くらいでおいとましてきました。
「そうだ」
と、突然言われて、使ってくださいと出てきたものは「テプラ」

すぐこういうものを買ってきちゃうのも、私とよく似ている…(笑)
何に使おうとしていたのか、テプラを買ってきたのだけれど、箱に入ったまま。置いておいても仕方ないし、片付かないのでと、頂いてきました。

先生の形見として。

大事に使わせていただきます。 


そして、私は、トイレの中に、フォトフレームに入った「校歌」を発見。これを退職後も大事に飾っていた先生、そしてそれをいつも見られるように飾ってある奥様。

クリスチャンじゃないのにね。
本当に、母校の自由教育を愛し、型破りな教育を是としてきた先生。愛すべき学校を離れる時は、万感の思いがあったのだろうと、ちょっと涙が出ました。この学校じゃなければ、先生を受け入れるだけの度量が無かったかもしれませんね(笑) 校歌は、我々は歌うと涙が出ちゃいます。今の高校じゃないんですよね、男子校の時の、良き時代の。バカだったけど、本当にいい学校でした。

先生の早期退職。
理由は、奥様もいまだに本当のところは分からないのだとか。
しかし、突然「やめてきたぞ」と帰ってきたそうです。
あー、先生ならやりかねない!(笑)

推測するに、先生が早期退職された理由は、その自由教育が少し管理教育へ移行したからかもしれません。若い世代の先生たちが、この自由についていけなかったのかもしれませんね。

管理。
生徒を管理する。
決められたことをする。
これは先生の理想と真反対。
そうか。
女子が入って、母校も若干様相が変わったのでしょう。

自由。
私も、母校の「自由」を愛していました。
「かめさんには、ピッタリすぎるよな、この学校は」
と言われていました。確かにその 通りでしょう。基本、「自由行動」の私ですから、それを尊重してくれる学校は、正に私にピッタリすぎる学校でした。

またお邪魔しますと告げて失礼してきましたが、最後に、先生がアッセンブリーで話した原稿を送って頂く約束をしてきました。照れ屋で、偉そうに何か話すのが苦手という先生。私は先生のアッセンブリー(礼拝じゃなくて集会)でのスピーチなど、3年間で一度も聞いたことがありませんでした。数度だけ話した貴重な原稿がPCに残っていたのだとか。送っていただくことにしました。


最後に、もう一度と、先生の遺影の前に座って、お別れをしてきました。
が。
何も言えなくなっちゃいました。

ただ、
「ありがとうございました」
「お世話になりました」
それだけ。
ちょっと目頭が熱くなってしまって。
でも、ここで泣いたら、
「かめさーん、泣いてんじゃねーよ」
って言われそうだから、やめました(笑)


先生がいたから、高校も卒業出来ました。
先生がいたから、教壇に立つことにしたのかもしれません。
先生をモデルにして、自分の教師像を作ったのかも知れません。

本当に、亡くなる前にお目にかかるべきだった。
それだけが、本当に悔やまれます。
本当に残念。残念すぎます。

心からご冥福をお祈りします。

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明治学院校歌

人の世の若き生命のあさぼらけ
学院の鐘は響きてわれひとの胸うつところ
白金の丘に根深く記念樹の立てるを見よや

緑葉は香ひあふれて青年の思ひを伝ふ
心せよ学びの友よ新しき時代は待てり
もろともに遠く望みておのがじし道を開かむ
霄あらば霄を窮めむ壌あらば壌にも活きむ

ああ行けたたかへ雄雄しかれ
眼さめよ起てよ畏るるなかれ

作詞:島崎藤村
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