「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」
というのは、かの福沢諭吉の名言だと言われています。
「人間に上下は無い。つまり、万人が平等である。そういう高尚な思想なのだと、私自身、学校の先生にありがたーく教わった記憶があります。
しかし、これが大曲解・捏造された金言であることをご存知でしょうか? 世の「三大勘違い」と言われるまでになっているのですが、まぁ、都合よく解釈したものです。解釈というか、「トリミング」ですね。正しくは、こう言っています。
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲との相違あるに似たるはなんぞや。その次第はなはだ明らかなり。『実語教』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。
つまり、諭吉は、「天は人の上に……と言うが実際の社会には大きな格差がある。賢い人間と愚かな人間の違いは勉強だ」と言っているのです。だからしっかり勉強しろ、そのために私は慶応義塾を作るんだ…と、まぁ、そう言っているわけです。全然話が違うのです。どこかで、都合よく解釈した人がいるんですね… 現実は、今も昔も変わりないということなのでしょうね。
「健全なる精神は健全なる身体に宿る」という、あの有名な言葉も、誤用どころか歪曲であります。
デキムス・ユニウス・ユウェナリス(Decimus Junius Juvenalis)という、古代ローマ時代の風刺詩人、弁護士の『風刺詩集 (Satvrae) 』の中で用いられた言葉です。
ふつうは「健全なる精神は健全なる身体に宿る」(A sound mind in a sound body) と訳され、「身体が健全ならば精神も自ずと健全になる」という意味の慣用句として定着していますが、ユウェナリスの主張は全く別。ユウェナリスはこの詩の中で、もし祈るとすれば「健やかな身体に健やかな魂が願われるべきである」(It is to be prayed that the mind be sound in a sound body) と語っています。
つまり、「健やかな身体と健やかな魂を願うべき」とだけ言っているのです。健全な精神については数行に渡って詳細に記述されており、ユウェナリスがローマ市民に対して、「誘惑に打ち克つ勇敢な精神」を求めていたことがわかります。ありていに言えば、「健全な肉体には健全な精神が宿ったらいいのになぁ…」、言い換えれば、そうじゃないからガッカリだ!という意味。
これを曲解したのは何と、ナチス・ドイツを始めとする大戦中の各国。
スローガンとして「健全なる精神は健全なる身体に」を掲げ、さも身体を鍛えることによって健全な精神が得られるかのような解釈をし、軍国主義を推し進めたのです。その結果、現在でも世界各国の軍隊やスポーツ業界など、体育会系の人々が好んで使う言葉として定着しているのですが、本来は全然違う意味、むしろ肉体派を揶揄した言葉なのです。これまた歴史の真実。
エジソンの「天才とは1%のひらめきと99%の努力である」というのも、「人間、努力が大事だよ」という意味ではなく、「99%の努力があっても1%の閃きがなければ意味がない」、つまり、1%のひらめきが重要なんだと、こっちを言いたかったわけですが、いつの間にか「努力派」の金言に解釈されてしまいました。
つまり、人間社会は実に残酷なものです。人には違いがあり、差があります。
人間が平等であるなんて、もうそれこそ妄想に近いものがあって、残念ながらかなり呑気な方々の非現実的な理想論でしかありません。
ですが、ともすると、教育という世界では、「皆平等」「同じでなければいけない」「差があってはならない」「勝敗を決めてはいけない」という考えがまかり通る瞬間があります。しかし努力を継続している人間と、何も考えずに能天気に過ごしてきた人間が、結果として平等であるわけがありません。
「憲法では平等権を保証しているではないか」というご意見もあるかと思いますが、これはあまり賢明な反駁とはなりません。憲法で保障しているのは「機会の平等」であり、「結果の平等」ではありません。「教育の機会の均等」は完全に保証されていますから、門地や身分などで教育が受けられないなどという不利益を被ることは原則ありませんが、その中で皆が等しい結果を得られるかと言えば、「それは本人次第」ということになります。
そして、「現実」を直視すれば、人間社会には必ずや「差」が生まれ、また人間はある意味この「差」を求めて必死に努力を続けることになります。ここに、平等思想の大きな欠陥があります。
人間の世界において、いや我が国において、唯一「平等」、いや「公平」が保たれているものは、「教育」というか、「学び」だと思います。
就職活動では、最後の最後に容姿が決め手になることもあるかもしれません。その人の性格を見られてしまうこともあるのかもしれません。しかし、受験においてはそれはありません。純粋に数字のみ。公平さが保たれているうちに、努力の大切さを知って欲しいと切に願います。
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