ハリボテの学力は危険

最近、どこの学校も有名大学に進学させることを「売り」にしています。いわゆるG-MARCHという学校群がその代表としてあげられることが多く、「学習院」「明治」「青山学院」「立教」「中央」「法政」といった大学に行きましょうと言われることが多いかと思います。

これらの大学に行くことには全く異存がありません。確かにしっかり勉強して、ある程度のレベルを保った大学へ行くことが「大学進学」の意義だと思いますし、果たして地方の聞いたこともない新設大学に卒業する意味があるのだろうかと疑問を持つこともあります。その実、学生が集まらずに経営難に陥っている大学もかなりあると聞きます。やはり50%以上の高校生が大学へ進学する時代だと言いつつも、あくまで50%なわけで、ある意味「選ばれし者」でなければいけないようにも思っています。誰でも入れるのでは大学の価値もないなぁと。

ただ、そうなると、ひたすら大学受験のために勉強させるというような学習が「勉強」だと定義づけられる可能性も低くはないわけで、確かに大学入試問題などの解答法には精通しているけれども、それを裏付ける知識や興味関心が全く育たない子というのが量産されているような気がしてならないのです。

一言で言えば、「教養」の無い子が増えているんですね。
試験に出ないことは知る必要がない、意外なことを知って面白いと思わない、なるべくなら最低限の努力で最大の効果を出したい、そんな子です。ですから、例えば物理学がどんなことに応用されているのかなどという探求にも興味を示さないし、古文において平安時代の生活様式や時代背景などにも関心がない。英国英語と米国英語の微妙な違いにも気づかないし、ましてや日本史の知識などなるべく増やしたくないと考えています。これは勉強でもないし、教養でもないのですが、試験の解き方はやたらに詳しいわけです。こういう場合はこっちを正解とするとか、このパターンの問題はここから計算し始めるとか。

しかし、本来最上位の学校に合格・進学して行く子たちというのは、興味関心が人一倍ある子なんですね。大人顔負けのマニアぶりを発揮する分野があったり、なんでも知りたがりだったり、とにかくいろいろなことを知っています。英数国理社だけではないというところも重要で、美術に関しても、音楽に関してもよく知っていますし、運動も出来たり手先も器用だったり。そういう「総合教養」、リベラルアーツ的な興味関心がしっかり養われている子は、本当に「頭のいい子」に育つと思います。

ガリ勉で学力を上げるのは、ドーピング効果と同じですから、あとあと反動が来ますので危険です。知識教養を身につけることが正しいこと、楽しいことだと思えるような育て方をするのが大事です。そのためには、手っ取り早いのは「読書」ということになります。本は他人の体験や知識を、お手軽に短時間で「追体験」出来る手段です。ですから、本を読んでいる子が知識や教養を人一倍増やしていけるのは、人の経験したことまでどんどん自分の中に取り込んでいるからなのです。

「そんなやついるかよ?」

という方もいるかもしれませんが、実はついこの間まで勤務をしていたスタッフがそういう御仁でありました。何でもよく知っている人で、もちろん学科の勉強はオールマイティに教えられ、多少苦手なことも自分で勉強して教えてしまうのです。勉強は仕事ですからと言い切るほど。また、藝大を受ける子などとはクラッシック音楽の話で盛り上がったり、美術に興味がある子には上野で開催されている展覧会の話を詳しくしていたり、そして元野球少年だったので野球にも詳しく、ガンダムオタクなので家ではジオラマを本格的に作っていたりと、とにかくあらゆるジャンルに楽しいことを見つけ、それまたプロ並みに詳しいわけです。

私の高校時代からの悪友にして、11年も一緒に塾を運営した相棒は、出身大学は有名ではないのですがやっぱりマルチになんでも出来る一人。生き字引のような人間で、わからないことがあってその彼に聞くと、大抵お釣りが来るほどの情報が出て来ます。一体いつそんな情報を得ているのだろうかと思うほど。その塾を閉めて私は東京へ来たわけですが、その後彼はフリーで執筆活動を始め、今やTV、ラジオ、イベントに大忙し。そうだろうなぁと思う才能の持ち主でしたが、その裏付けはやっぱり「学力」というようりも「知識教養」であったと思います。

いい大学に入ったはいいけれど、その先の人生を見失ったり、根無し草の実力にあっぷあっぷしてしまう人もかなり見かけます。ゆえに、大学の授業でも必死で勉強している姿をみかけるのです。そうかなぁ?大学の授業は、本気でやる授業とこなす授業の2種類があって、緩急つけてゆったりと勉強できたはずなんですけどね。大学の幼稚化も結構気になるところがあります。

予備校式の解答テクニックは、あくまで解答テクニックであって、知識教養にはなりません。しかし、やっぱり最終的に入試問題においても「知識教養」のある子とない子では、最後の最後で差がつくのも事実。テクニックだけで乗り切れると思うのは傲慢な態度だと思いますし、そもそも大学へ行っても知識教養がないんじゃ仕方ありません。

ハリボテの学力で満足しない、その先の興味を引き出すのが学校の授業だと思うのですが、どうも最近はその部分を私たち「塾」がやっているような気がしてなりません。学校は予備校ではないのです。

この先の大学入試改革で、この部分がどう変わって行くのかがとても気になります。いくら学力試験を到達度測定式にしても、スコア式にしても、結局テクニックで乗り切るような対策がなされてしまっては意味がないと感じますが、皆様はいかがお考えですかね。 

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